軽 井 沢 温 泉 物 語
第2章 軽井沢の歴史 軽井沢という地名の由来 「軽井沢」という地名は、実は全国いたるところにあります。語源については、アイヌ語説、古代出雲語説など諸説ありますが、いずれも、清冽な清水の湧く山里に、この地名があります。長野野県北佐久郡軽井沢町も、清水湧く山里であることに変わりはありません。(「やまぼうし」より) 「かるいざわ」という地名がいつ、何から起こったのか、今日でもはっきりしていません。諸説によれば、”凍り冷わ(こおりさわ)”から転じたというものや、”軽石沢”からきたというもの、また水が枯れた”かれ沢”からきたと言うのもあります。更には、峠は荷物を馬から下ろして自分で背負って登らねばならなかったため、ふもとにはよく軽井沢(これは中古時代には背負うことを「かるう」といったことから「かるうさわ」が「かるいさわ」に転じたと思われる)という名勝が見受けられ、それが今日まで残っているなど多くの意見があります。(軽井沢案内より) 有史以前の軽井沢 縄文時代のいにしえより、軽井沢高原には人が住み、あちらこちらで集落を造っていたようです。軽井沢は高冷な土地ですが、鳥獣や果実・球根類が多く、古代の人々が住むのに適したところだったのでしょう。その証拠に軽井沢の古代遺跡をたずねてみますと、6〜7千年も前の縄文時代前期のものと考えられる土器が茂沢川の上流、大勝負沢付近からみつかっていますし、同代中期・後期にかけての遺跡も近年土木工事に伴って出土し、茂沢南石堂の住居跡として残されています。ここには、住居跡ばかりでなく立派な石組の墓地が環状にならんでいることで、学会はじめ各方面からも廣く注目されています。その他、この時期の遺物(土器、石器など)の出土するところは、茂沢地区はじめ、杉瓜、発地付近や浅間山のふところに近い千ヶ滝・旧軽井沢・矢ヶ崎川の水源地付近など広大な地域に及んでいます。 弥生時代に入っての遺物も湯川・杉瓜・茂沢などから発見され狩猟から農耕牧畜への過渡期にも人々が住んでいたことがうかがわれます。 特に信濃16牧の一つとして長倉の牧がありますが、これなどはこの土地が清涼な気候と豊富な草原に恵まれていて、狩り場や牧場に大変適していたことを物語っています。この長倉の牧の土手と思われるものが、現在旧軽井沢から離山のふもとを通り、富ヶ丘、古宿、追分あたりまで走っています。 この時代に使われた土器である土師器・須恵器が茂沢・杉瓜地区・入山峠付近のふもとから発見され、更に杉瓜から遠くない風越山付近には、その時代の墳墓もあるのではないかと予測されています。また、入山峠からは、小型の剣、勾玉、管玉なども出土し、2,000年も前に往来のあったことも明らかとなりました。 古代の軽井沢 日本武尊が、「吾妻はや」「ああ、吾妻はや」と三嘆されたのは、碓氷峠の頂上であるといわれています。ご東征のみぎり相模湾で荒れた海を静めるために人身御供となって身を海に投じた、今は亡き妃の弟橘媛をしみじみと偲んで三嘆された故事で、約 1,890 年前のことです。この故事にちなみ、後年、熊野皇大陣神社が、峠の頂上に祀られています。碓氷峠が、古来、関東と北陸を結ぶ要路であったことも、それが難所であったことをも、よく伝えている話であり、万葉の歌にも詠まれ、その歌碑が碓氷の見晴台に建っています。 平安時代の軽井沢は、長倉と呼ばれ、馬の産地であるとともに、交通の要衝でもありました。建久4年 (1193) 、源頼朝は浅間山麓で大巻狩をおこない、熊野神社に上矢を奉納し、その折り、馬の沓を掛けて道としてしるべとした土地が、沓掛(今の中軽井沢)であるといわれています。 入山峠(軽井沢町成沢と群馬県松井田町入山の境界)から、昭和30年に多くの石製模造祭器が発見されています。これらの遺物は古代の比較的身分の高い人々が旅する時に、ヌサ袋に入れて携え、山の峰で神々に奉り、旅の道中の安全と残してきた家族郎党の安泰を祈願したものと伝えられているものです。 同様なものが、立科町の雨境峠や木曽山中の神坂峠でも発見されていることから、この入山峠が古代の主要幹道の一つであった東山道ではないかと考えられています。 江戸時代の軽井沢 江戸時代になると、軽井沢は中山道の一宿として開かれました。 江戸幕府は、東海、中仙、甲州、日光、奥州の、天下五街道を定め、諸所に関所を置き、一里塚を設け、交通の便を計ると共に、通行人の取締りをもおこないました。この中山道は、江戸日本橋を起点として武蔵・上野の宿々を経て、碓氷峠を越えて、軽井沢を通り、追分けで北国街道(善光寺道)と分かれて小田井、岩村田、望月の宿をたどって、木曽路から江州草津まで67の宿場を持つ江戸五街道のひとつとして慶長7年 (1602) から2年がかりで、本格的に整備されました。 当時の最重要街道であった東海道は、台風シーズンには「川止め」が多く、そのため中山道が、代わって重要性を担い、軽井沢(今の旧軽井沢)、沓掛(今の中軽井沢)、追分(今の追分)の三宿は、「浅間根腰の三宿」とよばれ、殷賑を極めました。 東海道に次いで参勤交代の大名行列の多いのも、中山道でした。「お道具は尾張様、行列は加賀様」というような言葉も伝わっており、百万石の行列は、軽井沢から追分まで続いたといわれます。 しかしながら、この宿場町を取り囲むように広がる農村地帯は、高冷地のため、ごくわずかのアワ、ヒエ等の雑穀物が主産という寒村で、しかも例年の如く襲う冷害や活火山浅間の噴火による災害に見舞われ、加えて宿場への助郷にかり出されるため、農業に携わる民の生活は悲惨なものであったと伝えられています。言うなればこの時代の軽井沢は、旅人たちの落とす路銀が生活を支える大きな収入源であったわけです。 そのため江戸幕府300年の歴史が絶え明治の時代になると、街道を往来する旅人も年々少なくなり、かっての隆盛を極めた宿場も寂しくなって、住民たちは四散し、高寒冷地の一村として衰退の一途をたどったです。 そして、明治17年碓氷新道(現在の国道旧18号線)の開通によって中山道沿いの旧宿場町は決定的な打撃を受け、更に、明治26年 (1893) に鉄道が開通し(上野〜直江津間)、この辺を歩く人はたちまち一人もいなくなりました。なにしろ、横川から三宿までの碓氷峠越えは、たっぷり一日の行程で、それ故に三宿は賑わったのであり、歩く旅人がいなくなれば、宿場の命数はそれまででした。 ここに長く続いた浅間三宿の歴史は完全に終止符を打つに至りました。 避暑地軽井沢の誕生 維新後、信教の自由が許されると、欧米から続々と宣教師が入ってきました。明治19年 (1886) の夏、英人宣教師 A・C・ショウ氏なる人が、布教の途次、たまたま軽井沢を通ったところ、軽井沢の風光は、ショウ氏の耳目を驚かせました。 ショウ氏はスコットランドの生まれ、父に従ってカナダに移住し、トロントの神学校に学びました。明治6年 (1973) 来日、福沢諭吉邸に寄食し、慶応義塾でキリスト教倫理学を講じたこともあります。 ショウ氏の耳目を驚かせた軽井沢の風光は、樅の林、乱れ咲く高原の花、青い空気、太陽の輝き、住民たちの親切さ。ショウ氏は、望郷の念に駆られ、土地に魅せられ、ついに明治21年 (1888) 大塚山に簡素な家を建て、一夏を過ごしたのです。これが軽井沢の別荘の第一号です。ショウ氏は内外の知名人に軽井沢が保健と勉学の適地であると紹介したため、ショウ氏の友人達である宣教師の別荘が年を追って建ち始めました。 ショウ氏とその友人達の手によって避暑地として新しい生命を与えられた軽井沢は、明治26年に開通した碓氷新鉄道によって更にその発展の速度を速めていったのです。 軽井沢の発展 ともあれ、かってキリスト教宣教師の、夏の憩いの場であった軽井沢は、いまや夏だけの別荘地ではなく、四季を通じての週末の静養と、レジャーの地に脱皮しつつあります。終戦後東京から列車で5時間かかったものが、いまでは長野行き新幹線でわずかに1時間です。 軽井沢のよさが夏だけのものではなく、ゴルフなども春秋はさらによく、馬術倶楽部、国際射撃場等々にも恵まれ、加えて、冬さえも夏に劣らぬ魅力あることが年ごとに認識されつつあります。 冬の代表的な魅力は、透き通って堅い天然の油氷です。この美しい天然氷は、世界のスケート界でも認められています。そして、オリンピックで周知されたカーリング競技場。最近での人工降雪機を備えた多くのスキー場(第1号は軽井沢です)。 最後に、絶対に忘れてはならないのが、今回特筆大書しようとしている、軽井沢での温泉三昧なのです。 軽井沢の熊と猿 熊 1999年に入り、鶴溜と三井の森で各1頭の「つきのわぐま」が捕獲され、お仕置き(鼻に唐辛子のスプレーをかける)をして山奥に放たれました。さらに、1999/8/9 朝、五つ設置した小瀬キャンプ場付近の罠に1頭がかかったとのことですが、軽井沢の熊は人を襲いません。 猿 現在軽井沢周辺に30頭くらいの野猿の群が4群ほどいます。追分けとか新軽付近にもはぐれ猿が現れますが、町としてはこれらの120頭ほどの猿を山奥に追い返す努力を続けていますので、絶対に餌をやらないで下さい。 (1999/8/9 軽井沢RC例会での佐藤雅義軽井沢町長の卓話より) ======================================================================== 速報ニュース【社会】 平成11年8月12日 提供:読売新聞社 ■クマ出没でキャンプ場閉鎖 長野・軽井沢の町営キャンプ場が、連日出没するツキノワグマの影響で予定より11日早く閉鎖。 予約者425人に申込金返還。クマは生ごみ狙う? 町は「人がごみ処理に気をつける必要も」。 標高 軽井沢駅 海抜939M 人 口 16,541人 (1999/7/1 現在の住民基本台帳による) 世 帯 数 6,633世帯 (1999/7/1 現在の住民基本台帳による) 観 光 客 数 約 800万人 町 花 サクラソウ 町 木 コブシ
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