軽 井 沢 温 泉 物 語
第3章 浅間山と軽井沢の温泉の歴史 浅間山 (2,568M) 長野・群馬両県にまたがる我が国最高のヴォルカノ形の三重式活火山として現在も活動を続けています。 浅間山の噴火の記録として最も古いものは、白鳳13年 (685)であるが、その後の噴火の中で最もその被害を及ぼしたものは天明3年(1783) の大爆発で、軽井沢宿(現在の旧軽井沢)では赤熱した火山弾のため火災が起こり51軒が消失したものをはじめ、降り積もった石や砂は 1.4mにも達したため、その重さに堪えられず倒壊した家屋が150軒にものぼったが、避難したため人畜に対する被害は、少なかったといわれています。 しかし北側では爆発に続いて起こった火砕流と大泥流のために鎌原集落は土中に没し、総人口590人の内、観音堂に避難して助かった93人を除いて全員溶岩の下敷きになってしまいました。この大爆発により、死者合わせて1,377人、倒壊した家1,265戸という大被害を生じました。 最近では、昭和48年2月 (1973) に11年3ヶ月ぶり(1965年4月の弱い噴火を除く)に大きな噴火をして、5月24日まで活動し、小規模の火砕流が3回発生しています。 このように、いったん活動が始まると、とどまるところを知らない浅間山も、青い空に煙をたなびかせ、四季おりおり雄大で素晴らしい姿を見せてくれています。 (注意:火口から4km以内は、大変危険なため、登山禁止になっています。) 火山の恵み 軽井沢町の北部を斜めに横切り、小瀬林道沿いに、小瀬温泉から星野温泉の横を流れている川は、昔から湯川と呼ばれています。 その上流をさかのぼること約8キロの所に、細い絹糸が幅70メートルにわたり百万条もたれているような滝があり、これを白糸の滝と呼ばれています。富士の白糸の滝とは、全く対照的に女性的で、繊細な美しい滝で、湯川はここを源として発生しています。 浅間の白糸の滝は、浅間山に降りそそがれた雨や雪解け水が、火山礫に浸透し、地下にしみ込んだものが、不透水層に達して集められ、露頭として地表面に現れ、突然に滝となって流れ出しているもので、水は清く冷たく、水温は通年摂氏11度の恒温であります。 この白糸の滝を源とする湯川の、小瀬温泉から星野に至る間の河床には、最近まで温泉の露頭があり、摂氏25度くらいの湯が所々に湧出しているので、寒中でも湯気が立ち昇り、どんな酷寒でも凍ることはありません。これは浅間山活火山と鼻曲山死火山の影響によるものといわれ、硫化水素瓦斯を伴った低温度の湯が流出しているので、湯川という名がつけられたのです。また、天明3年 (1783) の浅間山の大噴火の時にはこの湯川に熱湯が流れたと伝えられています。 この、湯川の上流に小瀬温泉があり、その湯川に臨む星野温泉は、長野県北佐久郡軽井沢町大字長倉字赤岩という地名で、赤い岩盤が今でも露出しています。 明治43年 (1910) の大水害までは、湯川はこの赤岩の裾を洗いながら流れていました。 なお、草津温泉は強酸性の熱泉で、古来より湯治場として知られています。湯治客は中山道の沓掛(現在の中軽井沢)を玄関口として9里(36キロ)の道を、馬の背に櫓を乗せ、その櫓に人が入り、ゆられながら一日がかりで、草津へ通ったものです。草津温泉の泉質は硫酸を含んだ強酸性の温泉で、昔は治療のために時間湯という共同浴場の熱湯に一日3回、一回3分間ずつはいる習わしのため、皮膚の柔らかい所が爛れてしまって、歩くのに困難したものでした。そこで、1〜2ヶ月の湯治をを済ませて帰る人々は、このただれを直してから家に帰る必要がありました。草津街道に沿った、ひなびたアルカリ性の温泉に、2〜3日ほど入湯していると、皮膚は整い美しい皮膚によみがえるので、星野温泉は明治時代、赤岩鉱泉という名で草津帰りの人々に親しまれていたものでした。従って、古来「けが」や、「やけど」に効く湯として知られていたのです。 そして、この素晴らしいアルカリ性の鉱泉を、なんとか高温度の温泉に仕立て上げようと、温泉狂いといわれながら、4代にわたる血の滲むような努力と不退転の決意をもって、取り組まれた星野家ご一族のご努力が、見事に実を結び、今日の星野温泉が生まれ、軽井沢における観光事業の草分けとなったのです。 現在の星野温泉会長・第四代星野嘉助氏は、推されて長野県温泉協会(正会員数 1,723名)会長の要職にもあり、多忙な毎日を送っておられます。伺いますと現在長野県内に温泉掘削の「アナ」が全部で978本あるが、そのうち727本が未利用で、これは多すぎる。故郷創成で竹下さんが全国に配った1億円で掘られた温泉が120本、その内105本が市町村の第三セクターによるもので、その大部分が赤字! 貴重な資源の濫掘防止と、税金を使っての損益不感症の無責任な民業圧迫の根絶などが今後の重要な課題でしょう。 浅間山噴火の歴史 ( 685) 白鳳13年 記録に残る最も古い噴火 (1108) 天仁元年 天仁噴火 (平安時代後期・大規模火砕流で周辺は壊滅的な打撃) (1783) 天明3年 天明噴火 (江戸時代中期・吾妻火砕流、溶岩流、鎌原岩屑なだれ) (1928) 昭和3年 浅間山噴火 (1935) 昭和10年8月4日 浅間山噴火 (1965) 昭和40年4月 浅間山噴火 (1973) 昭和48年2月 浅間山噴火、小規模火砕流3回発生 浅間山火山観測情報 1999年8月9日 発表 軽井沢測候所は8月9日、浅間山の火山観測情報を発表した。それによると、8日から火山性地震が増え、火口に最も近いB点(南2キロ)で、8日は一日の回数が計117回と96年12月7日以来、百回を超えた。地震は9日も依然活発だが、同測候所は「ピークは過ぎて減少傾向になってきた」としており、噴火に結びつく兆候は見られないという。9日は午後4時までで計121回を観測したが、8日午後6時から9日午前3時までの間をピークに、1時間ごとの回数は減ってきている。規模は、A点(南南東3.8キロ)で9日午前2時台に一度だけやや大きい地震を観測したが、全体的に小さい。同日午後4時までに観測された噴煙の色は白で、量はいずれも1(極めて少量)と今のところ異常は見られていない。最近の地震回数は月平均で百回前後、一日に数回から十回程度で推移していた。 浅間山定期火山情報 1999年8月10日 発表 <地震は減少傾向> 軽井沢測候所は10日、浅間山の定期火山情報を発表した。7月は地震活動において下旬に幾分地震回数が増えた期間があったが、それ以外は少ない状態で推移、全体としては特に大きな活動の変化はなかった。噴煙活動も比較的落ち着いた状態。8月に入ってからは地震の日回数は10回前後だったが、8,9日とも日合計が百回を超える状態になった。しかしその後、減少傾向を示している。 7月の地震回数は、月合計でみると、火口に最も近いB点(2キロ)が99回、基準観測点のA点(3.8キロ)が28回で6月より幾分増加した。全体からみると、97年6月以降の月合計百回前後という低い活動レベルの範囲内であり、著しい活発化ではない。 地震の大きさでは、A点で最大振幅が 1.0マイクロメートル以上のやや大きい地震が2回あった以外は小さいものがほとんどだった。火山性微動は観測されなかった。 噴煙の遠望観測は、山頂が見えた17日間のうち、「噴煙なし」の日が3日で、残り14日間も噴煙の量は少なく、2(少量)が2回のほかは1(極めて少量)。 噴煙高度は300メートルが1回、その他は200メートル以下。 引用資料 やまぼうし 星野嘉助氏著 軽井沢案内 1999年版 軽井沢町観光商工課 浅間山火山防災マップ
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